街で見かけた有名人に「オーラ」を感じた経験はあるだろうか?
学生時代、筆者のバイト先に日本人なら誰でも知っているようなスポーツ選手が客として訪れた。
サングラスにマスクに帽子という風貌。
その人が有名スポーツ選手であることに気づかず、必死にテーブルを拭き続ける筆者に、店長が駆け寄ってきて
「あの人スポーツ選手の〇〇だよ、たまに来るんだよね」
と、なぜか誇らしげに伝えてきた。
もう一度、その俳優に目をやった瞬間驚いた。
とんかつを、衣を剥がして食べていたからではない。
先ほどは微塵も感じなかった「オーラ」を放っていたからだ。
この瞬間筆者は確信した。
有名人が放つオーラは「見る側の錯覚」であることに。
偉大な実績が相手を大きく見せる
間抜けヅラでスポーツ選手を見つめる筆者の頭の中に、次々とその人物に関するシーンがフラッシュバックした。
「オリンピックでメダルをとっていた」
「大勢の人間に褒め称えられていた」
こういった偉大な実績を、テレビやネットを通じて見る側が認知していることで、相手が大きく見えている。これが有名人が放つオーラの正体ではないだろうか。
知らない人にオーラを感じることに関して
いくら偉大な人間でも、実績を知らなければオーラを感じることはない。
筆者が店長に言われるまでスポーツ選手に対して全くオーラを感じなかったのもそのためだろう。
しかし、有名人でもない人物に対して、「あの人、なんかオーラあるな」と感じる現象が存在するのも事実。筆者自身にも経験がある。
これは一体なぜなのか?
偉大な実績を連想させる人間から感じるのはあくまで「オーラの気配」
知らない人物にオーラを感じる、そのような時、その人物は大体
「顔や体格がいい人」
「自信に満ち溢れている人」
こういった類の人種だろう。
これらの特徴は、総じて偉大な実績を連想させる。
優れたルックスは、「実績」そのものだし
自信に満ち溢れているということは、優れた実績を持っているのではないか?
このような「あの人は多分すごい人だな」という推測が、「オーラ」を錯覚させるのだ。
このような場合に見えているのは「オーラ」ではなく、「オーラの気配」
なので、決して混同してはいけない。
有名人はなぜ「目を引く」のか
ルックスがいい人に目がいってしまうのは人間の性なのだが、
ルックスにこれといった特徴がない有名人、例えば「小説家」や「芸人」など
こういった類の有名人も、街中で見かけると目を引くのはなぜなのか。
知っている顔だから
人混みの中に知り合いを見つけると、当然その人に注目してしまう。
有名人が人混みの中でひときわ目を引くのはこのせいだろう。
私たちが街中で見かけた有名人を目で追ってしまうのは
メディアを通じて「知っている顔」だからだ。
これは「オーラ」とは別の現象だと言える。
有名な下着泥棒にオーラを感じるか?
仮に、その生涯で盗んだ下着は数億枚におよび、
「欲しいと思った下着を盗めなかったことはない」
という名言で全国的に知られる下着泥棒がいたとする。
彼が現行犯で捕まった時、その様子は世界中に中継され、あなたも視聴者の一人であったとする。
あなたは後日、この下着泥棒を街で見かけた時「オーラ」を感じるだろうか?
筆者がこれまでに述べた推察から導き出される答えはこう。
目は引くがオーラは感じない
下着泥棒という実績は、決して偉大なものではないのでオーラを感じることはできないが、顔は知っているので目は引く。
しかし、あなたもまた下着泥棒の道を極めんとする駆け出しの下着泥棒であった場合はどうだろうか。
目を引くしオーラを感じる
駆け出しの下着泥棒であるあなたにとって、数億枚の下着を盗んだという実績は尊敬に値し、「偉大な実績」であると言える。
つまり何が言いたいかというと
同じ人物に対しても、オーラを感じる人もいればいない人もいるということだ。
あなたが誰にオーラを感じるかは、あなたの価値観によって左右される。
オーラは絶対的なものではないのだ。
これこそが、「オーラは錯覚である」という何よりの証拠だ。
オーラが欲しければ偉大な実績を残し、知られよう
「存在感がない」「覇気がない」
周りの人間からこのような評価をされがちな人は筆者も含めこの世にゴマンといるだろう。
こういった人は、明日からでもいい、視界に入った下着は全て盗むつもりで日常を過ごそう。
「干しているものだけでなく、履いているものもいくぞ」というくらいの気概があっていい。
こういった態度で日々を過ごすうち、あなたが盗んだ下着を保管するためだけに借りたマンションの床が抜けて、下の階の住人に天文学的量の下着が降り注ぐ頃、日本中の、いや、世界中の下着泥棒たちがあなたに感じているもの、それが紛れもない「オーラ」なのだ。
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